地区案内図
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各地の解説
- 地図の上から下の順に解説します。
- 文中の赤文字はその地域で観察できる植物や動物の種類です。
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- 西に三ヶ根の山並みを見通し、夕陽と遠景を楽しめるケヤキ街道。
- 運動場をメタセイコイヤが取り巻く公園。朝夕と近所の人々が散歩したりグランドゴルフをしたりと親しまれている。シラカシ・マテバシイ・ハナミズキ・モクレン・ヤマモモ・サクラ・ケヤキなど。
- 玄関の太いヤマモモがシンボル。
- イチョウとクスノキがシンボルの正一位秋葉神社。
- 18年夏、町民で公園プランを設計。21年春、完成。
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- 桜の隠れた名所。広い運動場に子どもたちの歓声とユリノキ(ハンテンボク)、アメリカフウ、ナンキンハゼ、シイ、クロガネモチ、クスノキなど多様な樹木が大きく成長しているオアシス公園。
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- 昔はホテイアオイが水面を覆っていたという。今では昔ほど自然度はないが、幸小児童がゴミを拾ったり自然観察をして大切にしている。トンボなどの昆虫、カモをはじめとした野鳥、そしてヨシなどの植物や桜の木などが四季を感じさせる。昔の名前はヤモメ池だった。
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- 水無川の上部を車がスピードを出しにくい道路とし、ハナミズキやイチョウ、トウカエデなどで緑道化した四季を楽しめる道。
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- 昭和52年、豊橋市43番目の学校として開校。
- 戦後、昭和24年軍隊演習地を開拓のため入植した豊根村からの人々が、開拓地の守護神として、そして集団の精神統一の社として建立。神社なのに御幸神社墓地を持つ珍しい神社。開拓記念碑もある。カシ、アカマツ、モミノキなどの鎮守の森。
- 花祭りは奥三河地方に伝承されている霜月神楽で、700年以上の歴史を持つ。豊根村からの人々がこの地にたくさん入植し、佐久間ダムに沈む豊根村分地地区の花祭り祭具一式を譲り受け、榊鬼、茂吉鬼、山見鬼などが夜を徹して舞う花祭りをこの地で花開かせたのが始まり。昭和31年1月18日のことでした。もちろん花宿は御幸神社。現在では毎年1月4日が祭礼。
- 昭和天皇が皇太子時代に行啓されたとき、地元青年団が整備した道路と言われている。幸町の町名の起こりとも伝えられている。
- (とよはしようじゅんのうぎょうきょうどうくみあい)
日本で唯一の豊橋うずら農協。豊橋のうずら産業は大正10年頃が起源で、うずら卵の生産では日本一だ。現在約400万羽を農家が飼育していて、1日当たりの産卵量は320万個余というからすごい。 - この辺り一帯は軍隊演習場だったが、その中で一番高い地点。標高34m。三日月がよく見えたんでしょうね。
- 昭和32年に愛知県天然記念物に指定された。高師台中学校南側一部と浜池公園が天然記念物指定地にもなっている。高師小僧は別名管石(クダイシ)とも呼ばれ、隣の浜道町管石(カンセキ)に地名として残っている。
- 昭和49年、市内で17番目の中学校として開拓指導所跡地に開設。
- 見晴らしのよい位置にあり、南側斜面に藤の古木が広がっている。
- 曙町若松から藤並町相生にかけて、縄文・弥生の遺跡が見つかっている。梅田川や森で狩りもしていたようだ。古くから人が住みついている地域だったのだ。
- 昭和31年(1956)、入植者の農業指導のため設置。昼夜をとわず、技術指導を受け、みるみるうちに上達し生産力をあげたそうです。
- 豊橋の新産業創出のための知的産業ゾーン。豊橋リサーチパークの格がこの施設だ。東三河地域研究センターをはじめとし、たくさんの研究開発機関が産学官連携で先端的な取り組みをしている。
- (れいろうのもり)
緑のかたまりが存在感をもっている。一般開放されていないのが残念。
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- 水無川の地下に配水管を設け地上部に小川と植栽を設けた親水コミュニティ道路。
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- 豊橋の南部・西部方面の消防・救急の拠点、お世話にならないことが一番。
- 住民票や各種証明書の交付が行われている。
- 長年親しまれた「幸スポーツ広場」は、豊橋市曙学校給食センターとして生まれかわり、令和4年4月より稼動。
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- 戦後、軍用地に入植し開拓に努力した先人たちの足跡がこの記念碑。入植時には15軒ほどだったが、今では800軒もこの地にある。
- 標高31.8m、第二次世界大戦中、日本軍陸地測量部が基点とした三角点があった。測点という町名の由来でもある。
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- 藤並町は津島市藤波地域の人々が移住し集落を形成したと伝えられている。進雄神社は津島市の天王神社とおなじく天王様を祀り、1669年に創立とされている。境内には江戸時代の藤浪を詠んだ藤浪の歌碑、二基の石が寄添う庚申塚(こうしんづか)、藤並出身で豊川用水通水に尽力した八木一郎氏の業績をたたえた和の碑がある。ウバメガシ、ヒノキ、クスなどの鎮守の森。隣には天皇池がありビオトープとなっている。
- (こようし)
「ただならぬ たかしの山のすえつくり もの思ひをぞやくとすと聞く」 増基。
高師山は、高師原や天白原などの台地の総称をいう。この辺りの窯から立ちのぼる煙を見て詠まれた歌という。西行、実朝の歌や更級日記にも高師山は登場する。平安時代には窯がたくさんあり、碗や皿が見つかっている、文化の地域でもあった。 - 江戸時代、1660年代後半ごろに尾張津島地域の人々により開発されたと言われている梅田川沿いの新田。
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- 豊橋市雲谷町に源を発し、湖西市梅田を流れ再び豊橋に入り三河湾に流れ込む延長14kmの豊橋第二の川。川はきれいに保ちたいものだ。
- 明治40年頃、高師原が軍隊演習場になったとき宝地道地区に住んでいた人々が現在の高田町に移住し、この神社を造営。くちびるに紅をぬった阿吽の狛犬が楽しい。